「チーノ」について、ホンデュラスで考えたこと。

ホンデュラスに住む以前から、「日本は中国である。」ゆえに、ブルース・リーは、日本人であると言うことを聞いたことがある。それなら、大歓迎なことである。中国を考えていくと、まず中華料理。中国三千年の歴史は、感じる。地球上に寿司と中華、どちらが無くなると困るか?と、聞かれると、優柔不断な自分では普段あるが、即決できる。中華なしに生きてはいけるだろうが、退屈になってしまう。そして、それ以外の「チーノ(チーナ)」、「チニート(チニータ)」と、必ず毎日呼ばれる。このことは、ほって置いても構わないのだけど、あまりに日常のことなので、少し考えた。

物事を、大局的に考えていくと言うか、大雑把というか、それが文化であるのなら、なおのこと、曲者である。各場所に文化があるのなら、それを尊重する姿勢が大事だと思う。定説だと思うし、真理に近い一面を持っていると言えよう。そして、日本文化もそーいう定義でいくと、確固とした文化を持つことになる。ただし、自信に溢れて、それを誇示できるか?というと、小市民意識、中流意識至上主義のわが国では、体裁、世間体を重んじると同時に、他にもええもんがあれば、受け入れてみよう、そして安易なブームは、光陰矢のごとし以上にスピードで過ぎ去ってしまう。あとで振り返ると、一種のネタである。それは、この際、問題としない。

問題なのは、「チーノ」と、呼ばれることは、構わない。ただそのときの、言い方に侮蔑な感じが初めしたのである。それは、自分の持つフィーリング、語感的な物が恣意的な解釈をしたともいえるが、具体的に列挙する。

自分のアイデンティティーは、Yoshifumiであり、Japonesである。優先順位をつけると、パーソナルな部分が突出するのには、自分に対して確固とたる意識があるからである。次に、国籍と来るわけだけど、これは二次的なもので、意図して日本人になりたくてなったと言うものではない。そーは、言っても、日本は恵まれてるじゃないか!って言われると頭が痛い。恵まれていると、確かに思う。いろいろ問題は多いが、それでも曖昧模糊に次世代へと問題を解決せずにバトンタッチする姿勢には、文化すら感じる。その場主義ってことか?!だから、いつの時代も、政治の事は、褒められたことがないのであろう。

そして、Concordiaである。言っては悪いけど、確かに文化的教養って面では、レベルがかなり低い。まず、声がでかい、同じことを何度も言う、噂から自己の意見を加味し、拡大解釈し、それが情報になるから、小学生の伝言ゲームよりも性質が悪い場合がある。そこを抑えておいて欲しい。良い面もある。それは、今は割愛する。

ホームスティーしている時期があったので、自ずから家族と接する時間は多い。そして、ドラえもんに接するのび太ではないけど、写真撮ってよーと、言われるときは、ポケットからカメラを出すのである。それは、いい。そーいう家族は、僕が地図を示し、日本はここで、人口は一億二千で、面積、首都東京と地元大阪、気候、仕事やら、こんなん食ってるって話をしたつもりである。が、5歳に満たない子は、今も僕には、「チーノ」と言う。子供だけではない。小学校の校長先生も「チニート」と呼ぶ。一度、道を歩いていたときに、「チーノ」と言う、みすぼらしい格好をしていた子供に、「グラッシャス!」と言うと、横にいた同期からは「ハポネス」であると教えなあかんと言われた。時間があれば、逐一教えるべきであろうが、重要であるとも思えないのは、道すがらの、今後二度と会うことはないであろう子供に接し、時間を共有することは果たして重要であろうか?と思えるからである。

本題に戻る。「チーノ」と、呼びかけた人に、質問した。Concordiaには、今まで一度でも中国人が来たことがあるのか?そして、あなたは中国人を見たことがあるのか?と聞くと、両手の人差し指で、目元を引っ張り、目が細いから中国人であると断言した。確かに、目が大きくはない。そして、肌が黄色いとも指摘してくれた。さらに、馬、カエル、うさぎを食べるのか?と聞いてきた。広東料理を例に出すと、食べる。そして、食べたことがあるから言えるのであって、どれも美味い。肌が黄色は、少し笑った。逆に、少し色の黒い子に、「ネグロ」と呼びかけるのを見た。

同様に、親しみの意味を込めてと言うと、言い方が綺麗であるが、ここでは親しい間柄か、もしくはそーいう関係を構築したいって言うときに、形容詞で呼ぶことがここではあるとのことだ。例えば、「アルト」、「ゴルド」、「トント」、「ブランコ」などである。前から、のっぽ、デブ、あっぽちゃん、色白と言ったとこである。そこに、「チーノ」が入ることには、悪意はないと見れるわけである。

ただ、自分の持つ、国籍をハッキリさせたいと言う事がある。中国は日本よりも発達していないという馬鹿なことを言ってるのではない。どちらかと言うと、憧れすら抱かせてくれる国である。それよりも悲しいことは、ホンデュラスでは、我々の税金を用いて、ODA活動の一環で、医療、公衆衛生、また車両関係、橋、道路などのインフラ整備には、日本の予算が用いられているのである。そこをネチネチ言うのではない。また、政府に使うなと言うつもりは毛頭ない。閣議決定には賛成だから。ホンデュラスの新聞を見ると、日本情報が多々出ている。そこまでしていても、知名度はアジアの中では、中国の足元に及ばない。カンフーや空手を見て、またブルース・リー、ジャッキー・チェンの映画がどれだけ効果を持つか、覿面である。日本は、マンガで仇を打とうとしたが、どうもインパクト薄い感が否めない。

だったら、「チーノ」と言われることに対して、お前が問題にしたんだろう?と言われるかもしれない。確かにそうである。腹が立つことの裏には、中国を格下と見ている優越意識があることの象徴であろうが、腹が立たない。少し意識したいのは、華僑であるとか、各国にチャイナタウンを設け、そこのコミニュティーを確立して生きていく、中国人たちの姿に敬意を表したいからである。日本人町、リトル東京などがあるが、少し違う閉鎖的な感じもする。そこに来て中国である。日本人である自分が中国人の弁護をしているのなら、大きなお世話になりそうである。ただ、「メイヨー」と言われ、本土で腹立てたこともあるし、物を買っても、謝謝の一言もなかったのには、日本の杓子定規で物を考えると、サービス業としては最低であるが、副産物的な意識もする、第三次産業。シンプルがいいじゃないか、と思えるようになって来た。大量供給、大量消費、その日その日を生きる中国人と言えば、カッコよすぎる。普通にしているだけじゃないか、と思うからだ。意識しすぎることはない。ただ、こうなってくると、あまり努力していない、現実には仕事がないから暇である、との悪循環で満ちているホンデュラス。意識的に、上であると思いたいと遺伝子情報ではあるのだろうか?それとも、単に親しみの情を込めてのことなのか?判断難しいとこである。ただ、関係ないことではないけど、昔の話を出すと、うちのおばの件である。本来の生誕日ではない日を、出生届に出されるって言うことが戦前はよくあった。それで、自分の本当の誕生日ではないので、チットモ嬉しくないそうだ。それに似ていると言えようか?あまり考えてるうちは、国際派になれんか?そーいう問題でもないか?

ただ、大きな声で呼ぶのは極力辞めて欲しい。横にいて、耳が痛いからである。


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