仕事の足跡


勤め上げる?という言葉とは無縁のような気がする?
出向、異動、転職、そして協力隊参加で退職した。


 小学生のときに、漠然とではあるが、「青年海外協力隊になるには・・・」なるタイトルの本を近所の夕陽丘図書館で見た記憶がある。その頃から、なんとなくではあるが、そういう職業があるのかぁと思っていた。そのシリーズは、確かプロ野球選手になるには、とか、歌手になるには、記者になるには、とか色々あったと記憶する。その一個が青年海外協力隊なのであろうと、当時は思っていた。しかし、まさか自分がなるとは?!

 学生時代には、漠然と祖母が期待した職(教員)に果敢にアタックしたが、散った(その後、担当教授に大学院に行って勉強するのはどうだ?って聞かれたが、祖母に、それ以上学校に行く年齢ではないと一言言われたので、それもそうかと妙に納得したが・・。自分の人生の大半は、祖母のために生きていると言える部分もあるからだ。また、そのように育ってきたとも自他共に認められたから、ちょっと狭い社会だ?また社会人時代も試験を受けたが、面接で駄目とかそんなんばっかだった)。

 大学4年のとき、卒業まじかながらも、講師の口にするか、就職するか?で、なんかもやもやしてて、結局何も決まってない状況だった。その辺りに自分自身の甘さを強く感じるが。だったら、バックパッカーしてる場合じゃないよな?でも旅は人生の一部だからなぁ。就職活動って言うか、うまくなんでも事運べば、もんもんとはしてなかったんだろうけど、自分の場合は、祖母の意見を尊重した結果を重視したかったって言うのが根底にあるが。。まぁ、就職活動自体、葉書を一枚も出さなかったってこともあるが。そこで府立体育館での海外協力隊の募集案内で、専攻(文学部国語学主専攻)を踏まえたうえで日本語教師をしたいなぁって話をしたら、やはり資格云々よりか、まずは社会経験だと話を聞く。説教に近かったと思うが。じゃ、違う職種が良いのかなぁっと漠然と感じる。

 文型人間だった私が探した職種は、高校生のころから大阪国際交流センターとかに配布されているクロスロード(協力隊の雑誌)を読んでて、一種の憧憬に似た感情を持った村落開発普及員と言う職種だ。日本語教師よりか、面白そうだし、触れ合いの機会が多いのでは?と思い、さらに質問を開始すると、手に職や技術系の人間に来てもらうほうが、事務局的にもありがたいと言うことだった。

 そうなれば、という事で、協力隊に将来的に参加することを前提で技術系の仕事を探した。(主客転倒だよな?普通に考えたら。中学から大学まで私学文系に通ってた身で、何がいまさら?技術系の理系だ?と。手のひら返しとも言えるかな?でも、それって、自分の夢に正直に生きているんだよな?って思うと、正義だろう。自己正統主義かも知れんけど、正義は強いってことだね?!それでも、黙って好きにしたら、って応援してくれてたうちの母上は、寛容だなぁと痛感するが。)そしたら、その日の読売新聞の夕刊に技術系社員募集があって、未経験可ってあったので、ためしにって言う感じで、近所のコンビニで買って来た履歴書を郵送して、その二日後うちに連絡があって、面接に行ったら、呆気なく決まった。ヤル気はあるかね?って聞かれ、全く知らない分野なので、日々これ勉学の姿勢でと漢文の一部を流用した作文?みたいな採用試験を書いたら、パスした。文章を書くのは、好きな作業だけど、この時は、面接する側の立場を重視して書いたのも良かったのだろう。面接の達人を少しとは言え、読んだ経験が生きたのか?文系理系って分けることもないか?って結局は採用側が判断するわけだしなぁっと。さらに、人手が足りないってこともあったと後で聞くが、とにかくラッキーだったのだ。

 プラモデルやジグゾーパズルが好きだった以外、これと言って技術って聞くと、ええぇって思ったけど、環境について考えること、公害について考えること、意外と面白いと言う日が続き、ここでは、危険物、電気工事、冷凍機械、衛生管理者などのほか10種の資格取得を奨励してくれて、それまで履歴書の資格欄には、普通免許ぐらいしか書くことのないぐらいだったのが別紙掲載になってしまった。また、資格と言うか、免許取得が好きな性格なので、それは自分の知識となり、話題となることから、かなり頑張っていたと思う。そして、社会人になってもバックパッカー出来るぐらい、最高でも12日間って言う休暇を周りの同僚の応援もあって、認めてもらったりしていたので、せっせと海外に行くことが出来た。それでも?一応入社してから3年後に協力隊申し込む!って期間を自分で設定していたけど、その頃は仕事が面白く、まだ先で良いか?って思い始めた部分もあった。

 その後、出向で上場1部企業(中小にとっては、少しいいなぁと思っていたとこだが、ピンきりだ)に行くが、そこが最悪の環境と知る。名前だけじゃ駄目だぞ!と思った。学生時代には、その名前だけに少し憧れた時期もあったけど、世の中を知るって言うのは、実体験が物を言うのだ?また外資企業との合弁会社にも異動になった。派遣社員じゃなかったのに、派遣社員のような感じ?か、どうか知らないけど、期待してるぞと、当時の専務が言い、所属先の人事は、とにかく頑張れと、それだけ。当然、職場の雰囲気は給与体系が違うや、条件が違うから、少しややこしい。さらに、雰囲気が良くなかったのだ。自分でするよりか、お前がやれよ!と思った時期もあった。少しこのころ、忙しすぎてストレス過多になっていた傾向が強かった。基本的に残業は、ゼロだった仕事をしていた人間だったが、異動と同時に急激に増えた。休日返上もあったので、何なんだと正直感じた。冬のくそ寒い時期や、クリスマスとかイベントのある時間もせっせと働いてたとき、ふと?自分が矮小って言うか、小さく感じてしまった。感じる必要は全くないんだけど、感じたのでまぁ一応補足って感じで。

 さらにそこは、マイアミ、ロス・アンジェルスからのアメリカ人が多かった職場なので、アフター5は楽しかった。梅田とかでワイワイしたのは、性に合った。その分、日常はくだらなかったが。遣り甲斐はあったと思うし、仕事も出来たほうだと思う。かなりの人数の人間とも知り合えた。日本では日本式にすべきだけど、アメリカ人は自国の文化を注入した。ただし、自分の上役は日本人なので、アメリカ人には目をつぶり、日本人には目を見開いたものだった。よーするに、そこは歴然と感じる矛盾だったのだけど、それいっちゃ、お仕舞いだから。

 その頃、公衆衛生系の財団法人の採用募集があり、今のままじゃ、なんか経験的に得るものがないなぁって思ったときに、信用していた異性の友人からも、肩書きが確りしてる職場って良いじゃんってことで、100倍の難関?を突破し、1人採用で同期いないけど、転職した。しかし、そこでの雰囲気は自分の外に向かっていく?性格とは少し離れていた。浮いた存在を感じてたのだ。一言で、オモンナイって言う表現だ。しかも、その当時26歳だから、そういう事を感じるのが良い事ではないという一応の分別があったが。全て満たされる職場なんかあるわけないじゃんって思ったけど、あるとこにはあるだろうし、全ての部分合わなかった。保守的って言うか、事務的って言うか、そんなんじゃないな?仕事は仕事って割り切ればよかったのだけど。何か違うぞと、感じていた。そう、常に満足したい性格なのだ?!

 一応公衆衛生的知識も身には付いて、ふと何気に?青年海外協力隊の募集チラシを地下鉄四つ橋線の中で見た。締め切りにはまだ3日ある。すでに2回受験して、一度は2次で落ちている。その時、27歳。でも、受けるのはタダだし、ひょっとして、面接で東京にいけたら、東京ドームでジャイアンツの試合が見れるかもしれない!と言う、ホンマに軽い気持ちで受けたら、一次試験合格。以前の僕は、自分の設定した人生の階段を焦って昇ろうとして、蹴躓いてショックを感じたりもしたが、気楽に今回は受けたのだ。引き続き、東京での二次試験も結果は、合格。結果、13年2次隊でホンデュラス村落開発普及員・公衆衛生的分野の要請に引っかかった。要請書の中でも、その要請が自分に近いなぁって感じてたこと、また衛生管理者主任や公害問題を扱ってきたと、少し誇大にアピールしたこともあってか?合格だった。さぁ、訓練まで時間がないぞ!一応職場に打診すると、退職しか認めないと。しかも、規定通り2ヶ月前に辞表書類を出すことと。ハッキリ言って、書類を出したとき、このときは胸がなぜか?スッとした。普通は、将来の不安なんだろうけど、そこには明るい未来ってあるんちゃうんかなぁ?って期待が強かった。そして、新しい自分に二年後出会えそうな予感で、久しぶりに胸がわくわくした。ただ、仕事代わって良かったじゃんって言ってくれた友人は、僕の行動がアホか?って言う風にしか見えなかったみたいだったけど、自分の信念って言うか、嬉しいからいいじゃんと思った。その次に、協力隊事務局に打診すると、事情はわかったので、派遣時期変更届を書いてくれと。上手く行くかも知れないけど、合格取り消しになるかもしれないよ、と。でも、うまくいくと信じて、一か八か提出した。2日後、13年度3次隊に変更認めるとの答えが返ってきた。嬉しかった!

 その後、東京の補完訓練、駒ヶ根の訓練を経て、ホンデュラス国オランチョ県コンコルディアに在住している。

 現在は、青年海外協力隊・村落開発普及員の肩書きを持ち、任国では、ホンデュラス国厚生省第七衛生地区第一保健所所員。主業務は「健康な学校づくり」推進員である。



                                  Profile    Top Page

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送