「宗教」について感じたこと。


 近所のおばあさんが、63歳でなくなった。そして、子供や孫、親戚、近所の人が、悲しんだ。また、それは、当然だろうと思った。居丈高に振舞おうと思っても、経験上難しいことを知っている。感情の問題だと思うが、喜怒哀楽が激しい性格の僕には、なおのこと難しいことである。

 そのおばあさんの娘さんが、僕にジュースとクッキーを食べよ!って感じでくれた。何も声を掛けることが出来ないけど、ご愁傷様です、に近い、Lo ciento mucho...って言うと、Gracias、ありがとう。。。と返事してくれた。ここまでは、いつも感じる瞬間だった。悲しいね、って僕が言うと、いいや、今は嬉しいと言う。Alegreだと言う。???って思った。他の兄弟も、まだ悲しみまくって、横隔膜からの咽びも聞こえるほど、悲しんでいたときだったのだが・・・・。

 そのおばさん曰く、母はイエスのもと、この上空の天国に行ったのだ。だから、喜ばなくてはいけないと。
 その時、宗教が存在する強さを垣間見た気がした。また、ここの家族は日曜日のミサにも欠かさず通っていた一家だ。

 「宗教」が存在する強みを見た気がした。何かの、支えって言うか、心のよりどころがシッカリと、大黒柱として存在してるのだと確信した。生活の中に、あるべきものとしてある。なかったら、逆に生きていく支えがなくなるような感じであろうと。

とは言え、翌日の埋葬の日には、失神するほど悲しむ姿を見て、やっぱりそうだよなぁとも感じた。それは、真実であるとも感じた。

 文化の中に、一つのジャンルとして存在すると感じてた「宗教」と、「宗教」と言う確固としたジャンルが形成されてる違いなのだとも感じた。それは、僕には理解しようと思っても、頭では、なるほどなるほどと思っても、難しいと思う。そこまで、信じるってことが、おそらく出来ない人間であると思ってるからだ。現実に、「宗教」と言うのを、ショーアップって言うと不謹慎だけど、そういう部分で見てたことも否めない。付随されるイベントが主で、日常は従であるという感じだ。もっと言うと、イベントだけでも良いと感じてたから、そこが根本的に違うなぁと。

 何を信じるかは、人それぞれ。何も信じないのも、多いに良いと思っている。ただ、こういう状況で、ハッキリと言えるって、やっぱ大したもんだなぁって感じた。だからと言って、僕が「宗教」を熱心にするかと言うと、それは違う問題である。けど、そういう心の、一歩違えば、理性って脆い物も、ここまでシッカリと支えられるのだって感じた瞬間であった。羨ましいって言う気分だった。

 ただ、捕らえ方がやっぱり、国民性で違うのだろうなぁって気もする。八百万の神の国の我が国と、カトリック教徒の国って言うことも考えなければならないだろうなぁと。でも、やっぱ人って強くなろうと思うと強くなれるもんなんだなぁと感じた。

 自分は、今のままでいいですが、少し感動した瞬間でもあった。(2003.1.29)

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