世間体について考えてみた。   

意見を持つと言うことは、考えてみれば、すごくエネルギーのいることだと思う。当たり前だが、意見は、千差万別で無いといけない。また、そうなるべきであろう。が、世間体って言う、厄介なものが存在するとする。この、千差万別に出しても良い意見を集約する方向に結び付けようとする。厄介な代物だ。だが、それに従ってさえすれば、一応の資格と言うか、世間に於ける安心は、容易に出来るのである。また、人工的世間体は、扇動することもできるのだ。マスコミにおいて、それは顕著に見られることであり、またそのマスコミってことでも、人間的に少し問題のある人間が動かすとしているとなると、さらに厄介だ。また、大きなお世話だ!って言うのも気が引けるが、世間体に重きを置く人間は、かなり多い。自分もその一人であると感じるからだ。また、その方が楽ってこともある。引越しじゃないけど、らくらくパックなどがヒットする要因か?!社会的構成をなす要因を見ていくと、よく分かるような気がする。国民性もあるかもしれないが、平均って言葉が割りと好きな民族性があると思えるわが国。平均から、離れていくことによる基準外。基準を外れると言うことは、悪である。正義が好きな国民性にあって悪は、良くないので、駄目だよ〜と、周りの人徳ある年配者、また厄介なのが、人徳がないけど年配者が心配し、一言何か発すのである。大きなお世話といえないこともない。ただ、年配者は、苦労を経て、現在に至るという、絶対的自己欺瞞を持ちうる場合が多い。ゆえに、年配者の意見は、鶴の一声になるうるのだ。これを打破する、なかなか手ごわい。出来なくって当然の代物。だって、自分が年配者になったとき、おそらく同じ行動にでると安易に想像できる。ただ、世間体・・・・この厄介なものが、国民性って置き換えると、無視できない現実である。だが、脱却するには、つまりアウトローになるということか?いや、そういう意見を持つ世間体こそ、鶴の一声で変えていかないと?!でも、そうしたとこで、それが世間体になるのだから、体裁をきにするゆえんであろうか?ややこしいが、自分のイメージどおりに行かないときに、世間体を気にするでないと、よく言うが、案外自分が一番気にしているのでは、あるまいか?と感じた次第である。2002.10.23

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