「なぜ日本人はかくも幼稚になったのか」福田 和也  
 
 初めに明確にしておく。私は、三島由紀夫の思想を好まない。
そして、この作者は三島賞を受賞されているから、気鋭の作者の緊急書き下ろしと。そうなるところに、精神論があると、また三島の最期を想起させるかのように、見受け取った。

 そこには、殉職の精神、死して美なりとも受け止めるものが漠然と介在しているとの印象を受ける。そして、作者「私」は、今の世の中を嘆いている。全ての現象、ここでは国松長官襲撃事件、オウム真理教の一連の問題、また日航機ハイジャックによる超法規的措置の具体例を示して、今の現代の歪み、価値観の崩壊、また日本人が母国を愛さないが故に起こる問題を掲げていたと言える。  

 この著の中に同感だといえる部分も多々ある。
 
 「善意」と「正義」は、善良な市民の構成条件である。この2つは、現代社会において絶対的権威とも言える。
 ただ、常識は、ともすれば、変化する。時代性が生きているものと訴えるのならば、そこに付随すべき時代性、常識の部分も当然変化するものである。そこにもう少し配慮が欲しかった。
 明治の時代、幕末の志士を持ってくるのは結構。ただし、その時代に教育という概念を享受されていた階層は、どうであるか?現代のように、ほぼ100%皆教育受益の時代ではなかった。現代の教育論を嘆く以前に、明治の時代を見ても、はなはだ感じるのは、その時代、教育を受けるものの象徴として、特権階級的思想、または選ばれし者と、現代よりはるかにエリート思想は強かったと推測される。エリートの家系の出ならば、中央にしろ、地方にしろ、地元の名士と言うべき、周りからは当然一目置かれる人物であろう。そこの師弟である。たとえ、人間性に問題があろうと、一市民は、何も言えるわけがない。何かを言って、恨みを買いたくないからである。

 また、現代よりも、表現の自由があったか?と投げかけてみれば、自由民権論者が答弁したところで、中央に屈しなければ投獄、あるいは何らかの処置をとられていた時代背景があると感じる。そこを蔑ろにして、今の時代の人間は、以前の世代とは違う、と言われても、違って当然である。
 また、国家は、どこの国家もそうであろうが、常に先のことを考慮するものである。過去の歴史の清算と言う問題もあるが、そこは、戦争責任の所在を胡散霧散にしたのと一緒で、今ならば、刑法でも規定されているところの、戦後50年を経てるのであるから、解釈が難しいところであるが、時効と言うことも言える。戦況の戦後に、GHQに拠って諸問題は、ある方向性を持って進んで行った。そこには、近代憲法の制定、平和主義と、言わば理想論を盛り込んだ、戦後復興策がなされたはずである。最貧民国になったわが国に、世界は手を差し伸べた、その地点では、当時でも同じようであったと思うが、「親切」と「正義」が諸外国にはあったと思う。

 また、小さな親切大きなお世話に称されるように、「親切」は、過度になると「圧力」にもなるわけである。
 そこをどう咀嚼していくかが、協調の精神と言うべきところであろう?また、国民の半数以上が、非戦争経験者である現状は、たしかに知識で、情報で、擬似経験するしかないわけである。その結果、中国、韓国に対して日本が行った政策は、必ずしも評価できるものではない。
 
 時の権力者によって起こされたこのことは、足を踏まれた者、足を踏んだ者では、解釈が180度違ってくる。その事を、両国は追究する姿勢に変わりはない。それは、認める。国際法に時効というのがあるかないか、わからないが、戦争経験世代の減少は、考え方をもう少し、ファジーなものにしていくとも思える。そこまで、固執しなくても、違うところで何かを供与できないか?という部分が、ODAを受け取っていながら、ってところに掛かってくる。
 そうなると、日本は日本で、責任の所在を明確にはしていないが、責任を取っているとも言える。また、何かの面倒を見る、って時に、あまり大声で、こういうことをしているのだ、って言うことではない。黙って、しかし対処をするってことが重要である。
 寛大であり、包括的にと言うことで、過去の歴史に拘泥することは問題解決の糸口を自ら放棄することにも繋がる。

  「私」と「女子供」は、違うと述べている。日本を変えるには、5人でも、10人でも良いから、幕末の志士のようなこの場合であると、政治家が出てきて欲しいと憂いている。そのような場合、確かに評価されるってことは、難しい面がある。今が、どうか?ってことも繋がっている。この先に、現状の評価が変化するということもありうる。柔軟な姿勢を持つってことは、現代の利点でもあるといえる。ここで、率先して手を上げる人物が居ないってことである。日本はまれに見る、中流意識の強い風潮が国民性の中である。
 また、穏便に済まそうという、DNAが個々の体内にあるとも言える。これは、いい訳であるが。そこで、率先して何かをするってことは、現状でおそらく手がいっぱいであろう?政治家に、出来うることではない。
 民主制だと言っても、選挙で選んだ国民の代表と言っても、政治家が個人の意思を反映することはまれだ。党の方針ってことや、連立を組まざるを得ないかつての野党との意見調整も必至だ。
 昨日の敵は、今日の友って、手のひら返しに近いことを現代の世の中は、出来るのである。これは、思想的な発想でいけば、身売りに近い。売国奴とも言える行為を現代の政治の世界では起こっている。明治の時代だったら、みな自決していたか?と言えば、そうでもない。むしろ、用心棒代わりの素浪人を何人も抱えていたこともあるぐらいだから、用意周到にしてたのは、今以上だろう。

  ここで、やっと自分の感想を述べる。もう述べていたか?以前は、確かに作者の示すように、ちょっと厄介なオッサンと言うのがどこにもいたと思える。この厄介なオッサンは、子供には強い。また、自分の倫理は、倫理で正義だから、子供には怒れる。そのオッサン自体の行いの品行方正は、この際目を瞑る。
 ただ、子供のしつけって部分には、親、家族以外に、そういう地域に思想ではないが、何かを率先して示しつけるって言う人物がいた。
 現在は、そういうことをすると、不審者として連行されるのが落ちであろう。また、少子化も問題と言える。親が、子供に関する出費が増えてきていると言うが、良いじゃないか。何が問題なのだ?って部分が、現代の象徴なのだろう。
 誰も、このことに異を唱えない。また、唱えることが、非正義になるのであろう。ただ、その重宝されている子供の世代に、現代の国家が抱えている債務の付けをあとにあとに先延ばししている姿勢が、団塊の世代前後に多いと言わざるを得ない。 
 中途半端に、戦争体験意識を持ち、復興時には幼少であったが故に、労働力となりえなかった世代なのに、発想というか思想は、高尚なものと思い込んでる人が多い。
 また、単にマスの問題で、人数が多いと、それだけ行動力の選択肢も増えるというものである。象徴的なものが、戦後復興20年以降を経て、いわゆる高度経済成長期のさなかに起こった、学校での紛争である。
 学生が、日米安保について、世に問うた問題で、ハッキリ言おう、国家をより混乱させるだけである。また、この当事者たちに限ってみれば、思想が邪魔した世代であろう。自分で、有機的に選択できなかった故に、大人数で行動することを好み、先のことを考えてないまさに、インテリゲリラって自分でも思っているのであろう。
 ただ、行動するインテリって言うのは、エゴである。また、ここでの問題は、行動が表現であると感じている部分に、毛頭の武士の情けも何もない。一揆打ちをした小作農の思想である。まだ、食うための一揆は、本能であるから、許せる。ここに来て、世間がどうだって言うのは、責任転嫁の最たるものである。
 お前が、どうだ?ってことが大きいウェイトを占めるのは、言うまでもない。  

 明治時代の話に戻そう。明治の世代間の差異は甚だしいと言わざるを得ない。また、そのときに、国内に見切りをつけて、外に出た野口英世は今度は、文化の象徴であるってことで、新1000円札になる。
 これが出来るのが、日本である。素晴らしいといわざるを得ない、柔軟な対応策。彼が生きていれば、何と言うだろう?最期の功績って部分だけが、評価なのだ。この評価は絶対である。
 
 また、現代生きていたら、あれだけの何もかもを忘れて研究熱心になれる人物である。この人物を納得させるだけの研究機関が現状、日本にあるか?高等研究所でも予算があるだろう。無尽蔵に、しかも何かの目的を伴っては、行動できないであろう。それが、少し以前の研究熱心な学者が故に、プライドもあるが、評価されない、また年功序列という日本独自の素晴らしい制度の中では力を発揮できなかったであろう部分を、評価するよ、と誘い出したのが、オウム真理教ではないのか?マインドコントロールされているのは、いわゆる下級階層であろう。
 上のほうに行く人間ほど、マインドコントロールもあるだろうが、自分自身への挑戦を評価してくれるってところだ。活躍の場が欲しいとも言える。日本国内では、努力とか、根性って言葉は、いまやネガティブなイメージさえ持った感がする。耐えてしのぶ時代は、終わっている。

 また、関係ないが、松井秀喜がFAで外に出て行くことをどう評価するか?権利を行使する。労働者として当然な行為であろう。しかし、属性がそれをいいようには評価しないのが、わが国でもあろう。恩である、義理人情にかける、自己欺瞞などなど。やはり、全てがネガティブな発想に今は思えて仕方がない。  

 最後の部分にあった、面倒なことを避けて通る。これは、いつの時代でもそうではないのか?ってところだ。それを、口に出す悪もあれば、黙っておく悪もある。どっちにしても、エゴと取られるのであろう。
 現代は、協調性が重んじられている。なんでもそうだ。昨日の敵は、今日の友になるのだ。銀行を見てみなさいな、企業を見て見なさいな。そこには、リストラの嵐があっただろうが、敢行した企業は先見の妙で、現代の勝ち組になっているでしょう。
 日本人の相手を思いやる心、これが見せかけのものであったというならば、外国人にはそういう発想がないのか?また、断言するところに、あつかましさがある。

 これを読んで、そういう部分も確かにあるが、それ以上の部分で日本人が幼稚になった原因があると思う。そこは、宗教の自由って部分が、そうさせる。改宗も、宗教裁判もないことは、思想のプレッシャーの開放である。また、瀕死の経済状況からの復興、そして安定期を迎えて余裕があるのである。人間、余裕が生まれると、好き好んで争わないものである。経済の根本的概念である、富裕が物事を穏便に解決させることでもある。血を流す全時代的解決法は、ナンセンスである。また、責任所在を明確にさせることは、血を流せと強要させているのである。どちらがいいのかは、個人の問題ではない。この時代、血を流して喜ぶものはいない。「幼稚」になったのではない。どちらかといえば、周りを「達観」出来るようになったのである。その結果、刺激がなくなり、行動にも変化を求めることになり、何に求めるかというと、強調したいが、協調性に欠く事が難しいので、そこから没個性を求めている振りを楽しんでいるのである。良いじゃないか、たとえ、今の時代、何があっても、日本にいたら食うに困ることはないんだから!?

 それが、作者の呈す「親切」「正義」なのだから。でも、これがなくなったとき、一体日本の存在価値はあるのか?国が駄目になったら、国民も存在意義がなんだ?属性を重んじすぎていないか?角川春樹事務所から、出版することが、アウトローを強調しているのか?100人読んで、1人の賛同者で良いというが、過半数を超す賛同者がいるだろう。読んで、特に意義を感じなかった。ハッキリ言おう、日本人は、そんなに「バカ」でない。本当の「バカ」は、賢いを演じることは出来ないが、賢いものは、「バカ」も演じることが出来る。本質的「バカ」には、国民性で考えてみても、日本人は慣れないであろう。「バカ」に憧れているに留まっているから、世間がうまいこと動いているのだ。この先の世代でも、本当の「バカ」にはなれないであろう。それほどまでに、血が濃いってことかも知れぬ。

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